沿革

DONALDSON & BURKINSHAWは1874年11月6日設立のシンガポールでは由緒ある法律事務所であり、二一世紀半に渡る豊かな歴史を誇ります。設立者である、Alexander Muirhead Aitken、Alexander Leathes Donaldson、およびJohn Burkinshawは、初期シンガポールの法曹、法学、国民生活に多大なる貢献をしています。英国植民地時代、Aitkenが司法機関に足跡を残す一方で、DonaldsonとBurkinshawは立法機関の中心的存在でありました。本件については、Roland Braddel他による著名作『One Hundred Years of Singapore』で以下のように記録されています。


「Alexander Muirhead Aitken氏は1852年シンガポールで専門弁護士として登録後、1864年には法学院ミドル・テンプルで英国弁護士の資格を獲得。長年に渡り、公務分野で主要な役割を果たし、国内扇動継続のために公開会議で設置された数々の委員会において、活躍。1856年の短期間に裁判所書記官、1870年に1,2ヶ月間法務長官を務める一方で個人的にも開業。1861年にはAbraham Logan氏と共同経営するも、翌年Logan氏の元を去り、1871年から73年はBernard Rodyk氏と共同経営を行なった。1873年にはAlexander Leeathes Donaldson氏が加わり、翌年さらにJohn Burkinshaw氏が加わった。事務所は住所録にはAitken, Donaldson & Burkinshawとあるが、法曹記録ではAitkin & Co.である。1879年にAitkin氏が退任し、事務所名も現在のDonaldson & Burkinshawとなった。

A. M. Aitken氏がDonaldson & Burkinshawの設立者であることはすでに述べた。Donaldson氏と Burkinshaw氏が1870年代から90年代において司法業務を牽引した。この二人の紳士は尊敬され、人望も厚く、有益な業務を数多く行った。

Alexander Leeathes Donaldson氏は1865年に英国で弁護士として登録。1873年にシンガポール弁護士となる。John Burkinshaw氏は1863年に英国で弁護士登録。1874年にシンガポール弁護士となる。Bond氏が立法議会を退任後、その地位は1893年にはDonaldson氏へ引き継がれ、1895年Donaldson氏の退任後1896年には、Burkinshaw氏へ引き継がれ、退任の1902年まで議会で活躍した。この二人の紳士が当時の欧州的な司法実務を築き上げ、立法議会で議席を保持し続けたことは、法律事務所にも多大な影響を与えた。両氏は信頼のおける国会議員であり、スピーチにはエネルギーと知性がみなぎり、議会審議の明確な支えになったて。」

Alexander Donaldson氏は、1875年に設立されたシンガポール初の法曹委員会のメンバー3名のうちの一人であり、専門業務や実務手法の面で法務長官を支えました。1907年、裁判所条例により同委員会は公的機関となり、現在のシンガポール法曹界の先駆けとなりました。

特筆すべきこととして、Alexander Donaldson氏とJohn Burkinshaw氏は、著名なジッダ訴訟[1881] KY 24 (Kyshe判例集)の原告側弁護士を務めました。遭難船をめぐる本事件に着想を得て、ジョセフ・コンラッドによる壮大な小説『ロード・ジム』が生まれ、この作品は後に、コロンビア映画により1965年に映画化されました。

1800年代後半、当事務所のパートナーであるHugh Fort氏は、訴訟において彼の右に出る者はいないと恐れられました。後に勅撰弁護士に任命され、『1865年~1890年判例集(Index of Cases Judicially Noticed 1865-1890)』を共著で上梓しました。『One Hundred Years in Singapore』では、彼を次のように評しています。

「Hugh氏は、法務に限らず公務においてもシンガポール随一の聡明な人物であった。1905年から1908年まで立法議会の議員を務め、1909年から1910年に再任。退任後の1911年、ナイト爵を授けられた。長年、シンガポール社会において指導的立場にあり、立法議会の非公式メンバーとして法曹界を牽引し、彼の発言は娯楽の場や社交界などあらゆる面で影響力があった。弁護士としても敏腕であり、相手の弱点を徹底的に攻撃し、彼の訴訟ではその強固な立場を崩すことは不可能にみえた。また常に冷静沈着で、相手に対しても公正な態度で接していた。」

他に卓越した才能の持ち主として、Chan Kim Boon 氏が挙げられます。当事務所の事務官を務める彼は、語学に秀でたプラナカンであり、『三国志演義』や『水滸伝』など中国古典文学をババ・マレー語に翻訳したことで有名です。当事務所に勤務する前は、中国の福州海軍学校で軍人に数学を教えていました。そのうち何名かは、1894年から1895年の日清戦争で果敢に戦い、殉職した者もいます。

第二次世界大戦を前にして、当事務所は名立たる銀行、企業、商人など多岐に渡るクライアントを抱える、シンガポール有数の法律事務所へと成長しまし た。大戦中、業務は中断しましたが、シニアスタッフ達の勇敢な行動により、当事務所の書類や証書などは最高裁判所に保管されました。

1937年から1978年までDonaldson & Burkinshawのオフィスがあった商業銀行ビル

大戦後、当事務所はシンガポール有数の海外法律事務所として、国内司法の舞台で中心的存在でした。事務所のメンバーは、近代シンガポールにおいて初期の政治・法務の発展に多大な影響を及ぼしました。シニアパートナーのC F Smith氏は、1953年7月、ジョン・ニコル総督による任命を受け、1954年に制憲委員会のメンバーとなり、シンガポールの統治機構についての調査・検討に携わりました。

1970年、西マレーシアにて自国民もしくは永住者以外の弁護士が業務を行うことを禁止する法律、Promulgation of the Emergency (Essential Powers) Ordinance No.30が発令されるまで、当事務所はマレーシアのジョホールとクアラルンプール、サバ州ジェセルトン(現在のコタキナバル)とサンダカンにも、オフィスがありました。

故C S Wu氏は、中国の医療サービス・医学教育の近代化に貢献し、好戦家としても知られるWu Lian-Teh博士の息子であり、特に建設分野の仲裁に関して優れた専門知識を有していました。Godwin氏とWu氏は1967年に誕生した共和国初のシンガポール弁護士会にも所属。また2000年に退任した元シニアパートナー、故Henry Mosley Dyne氏は衡平法分野に精通していました。地元で有名な政治家であった故Joshua Benjamin Jeyaretnam氏も、1970年代初頭、当事務所のパートナーを務めていました。

現在も当事務所は、あらゆる司法サービスを提供し、国際的にも高い評価を得ています。

 

Henry Richard
Lubbock Dyne
1911 - 1948

Henry Richard
Lubbock Dyne
(1947 風刺画)

Henry Mosley Dyne
1932 - 2003

C. S. Wu
1932 - 2002
(1988 風刺画)